弥生時代(紀元前300年〜250年)では、桜は穀物の神が宿る「神聖な樹木」として扱われていました。
桜の開花が、農作業開始の合図とされ、サクラの咲き具合で稲作の豊凶を占う習慣があったとされています。(以下の記事参照)
そして奈良時代 (710-794年)に入り、現代の「花見の原型」とも言える梅の鑑賞が、貴族の間で流行りました。
その後、平安時代に入り鑑賞する花が梅から桜へ変わっていきます。
そして江戸時代に入ると、貴族の間で楽しまれていた花見文化が、庶民にも広がっていきました。
本記事では、古来から始まる花見文化の歴史と、その移り変わりを各時代ごとに紹介していきます。
花見は、時代によって楽しみ方が異なり、また政治によっても変化していきます。
本記事で桜の歴史を知ることで、花見がより一層楽しいものになります。
最後まで、お付き合い頂けると幸いです。
春の花見は桜より梅が人気だった!?桜の歴史をまとめて紹介!
桜の歴史は、日本最古の「古事記(712年)」の記録より始まります。
この中で「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」と呼ばれる女神が登場しており、霞(かすみ)に乗って富士山の上空へ飛び、そこから花の種を蒔いたと記述されています。
この花が桜である所以は「木花開耶姫」は美しい姿である反面、神としては寿命が短かったとされており、桜を思わせる記述であるためです。
また一説によると「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」の「さくや」が「桜」の由来であるとされており、この時代から「桜は美しく短命」とされていました。
その他に「日本書紀(720年)」では「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」は美人の象徴として描かれています。
記述に残る桜の記録は、この辺りから始まっていますが、それ以前の時代 (弥生・古墳・飛鳥) では、桜は穀物の神が宿る「神聖な樹木」として祭られていたとされています。
こうした時代背景の中で、奈良時代からの花見文化が始まります。
奈良時代 (710-794年)-梅の鑑賞-
現代の花見の原型となる「梅の鑑賞」は、奈良時代から始まります。
奈良時代は、遣唐使を中国に派遣し「仏教文化」や「律令制」など、中国の文化を積極的に取り入れていた時代です。
この時代背景の中で、中国より梅が日本に渡来してきました。
梅の良い香りは、貴族の間で珍重され、桜よりも人気がありました。
そのため、794年の平安京の遷都では、紫宮殿の前庭には「梅」が植えられています。
この梅の人気は「万葉集」で詠まれた梅の数からも伺え、桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首であります。
こうして貴族を中心に、梅を見ながら歌を詠む会が開かれていました。
これが、現在の花見の原型であると言われています。
このように、奈良時代では、日本古来の桜よりも、梅が珍重されていたことがわかります。
まだ当時は、桜は鑑賞するというよりも、神が宿る神聖な木であり、祭る対象であるという考え方が、未だに残っていたのかもしれません。
平安時代(794-1185年)-桜の鑑賞-
平安時代に入ると「桜」の人気が「梅」に勝り始めます。
これは、菅原道真が遣唐使(894年)を廃止したことにより、日本独自の文化が発展していったためであると言われています。
平安時代に作成された「古今和歌集」では、桜の歌が70首、梅の歌が18首と人気が逆転しています。
また「日本後記」には、日本初の花見(812年)を行ったのは嵯峨天皇とされており、神泉苑の行幸にて「花宴の節(せち)これに始まる」と記載されています。
これが桜の花見であったと言われている理由は「花宴の節」の前年から毎年、地主神社の桜が天皇に献上されていることから推定されています。
これを機に、毎年花見が開催され、さらには831年に開催場所を宮中に移し、天皇主催の年中行事となりました。
その後、貴族の邸や別荘でも花見が行われ、貴族の間で桜の花見の習慣が広まり、現代へ続く花見の起源になりました。
「源氏物語」にも、当時の華やかな花見の様子が、文字通り「花宴の巻」として描かれています。
こうして天皇主催の花見を通して、貴族の間に桜の花見が広がっていき、この時代に書かれた日本最古の庭園書「作庭記」にも「庭には桜の木を植えるべし」という記載が残されています。
このように「花見といえば桜」という認識が一般化したのは平安時代と言えるでしょう。
鎌倉・室町・安土桃山時代(1185〜1603)-宴会行事としての花見-
鎌倉時代に入ると、花見が武士や地方でも行われるようになりました。
吉田兼好「徒然草」には「京都の人々の花見」と「片田舎の人々の花見」の楽しみ方の違いが記されています。
片田舎の人々が風流を装ったり、騒がしく祝宴を行ったりすることに対して、批判めいた表現がされていますが、このことから地方でも花見の宴が催されていたことが伺えます。
一方、鎌倉・室町・安土桃山時代は戦の時代でもありました。
そのため、寿命が短い桜は縁起が悪いとされていたようです。
また安土桃山時代は、戦国武将の織田信長や豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代です。
この時代を通して、花見は徐々に盛大に行われるようになっていきます。
その中でも、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」や「醍醐の花見」が有名です。
「吉野の花見」は1594年に、大阪から運んだ1000本の桜が植えられ、5000人を集めて催されました。
この花見には、徳川家康や伊達政宗といった、有力な武将も多く呼ばれていました。
記録によると、この花見は5日間続き、本陣がおかれた吉水神社では連日のように茶会や歌会、能会が開かれたと言われています。
こうして、花見が宴会行事として定着していったと考えられます。
また「醍醐の花見より、花見団子が登場したとされています。
花見団子の「桜色」は春の桜、「白色」は冬の雪、「緑色」は「よもぎ」で夏の予兆をそれぞれ表しています。
また「秋」がないことから「飽きがこない」と掛けられています。
紅白で縁起が良く、緑が邪気を払ってくれるため、花見団子はめでたい席に重宝されていました。
江戸時代(1603〜1868)-春の行楽行事としての花見-
江戸時代に入ると、庶民も花見を楽しむようになります。
1720年に浅草(墨田川)や飛鳥山に大規模な桜の植樹を行ったのが8代将軍・徳川吉宗です。
当時、江戸を流れる隅田川は、大雨による氾濫が起こりやすく農村部に被害を及ぼしていました。
しかし、隅田川全体に堤防を作ることは幕府の予算でも不可能であったため、川沿いに桜の木を植える提案を行ったとされています。
その結果、桜の下に多くの人が集まるようになり、花見文化が広がっていきました。
また、農村部に桜の植樹を促進し、桜の名所を築いたとされています。
これは、農村に桜の名所が作られると、花見客による農民の収入が増えることを見越した策でした。
この時代に、庶民の間で花見は春の行楽行事となり、お弁当を食べ、お酒を飲む習慣が始まったとされています。
また、園芸品種の開発も進み、江戸末期までには300を超える桜の品種が開発されました。
明治時代以降(1868〜)-ソメイヨシノの普及-
江戸の末期になると、「エドヒガンザクラ」を父に、「オオシマザクラ」を母に自然交配した伊豆半島のサクラを、江戸の染井村の植木屋が発見し「吉野桜」と名付けました。
その後、奈良・吉野山の「ヤマザクラ」と名前が混同しやすいことから、1958年に「染井吉野」と改名されています。
接ぎ木で増えるので、成長スピードも速く様々な場所に植樹され、瞬く間に日本全国に広がっていきました。
現代における花見の桜は70%がソメイヨシノです。ただしソメイヨシノは寿命が短く、およそ60年といわれています。
全国のソメイヨシノは戦前に植えられたものが多く、現在多くのソメイヨシノが寿命を迎えています。
そのため現代では、ソメイヨシノの植え替えが急務となっています。
最後に-受け継がれる花見文化-
このように時代の変遷と共に、桜が花見の定番となり、春の風物詩と言われるようになりました。
そして現代では、日本の花見が海外でも人気を呼び、桜の下でお弁当を食べ、お酒を飲む花見を観に来日する外国人観光客は年々多くなっています。
このように、古来から始まる花見の文化は今もなお、こうして受け継がれています。
また花見の歴史を知ることで、花見はより感慨深いものになります。
以上が「春の花見は桜より梅が人気だった!?桜の歴史をまとめて紹介!」になります。
本記事を参考に、お花見をさらに楽しんで頂けると幸いです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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