縄文時代は、今から12,500年前〜2,500年前まで、約10,000年間もの間続いた時代です。
そのため、草創期(12,000年前)と晩期(3,000年前)では、まったく生活様式が異なります。
その中でも、”前期(6,000年前)”の気候は暖かく、食糧は豊かでありました。
縄文人は”木の実”を主な食料源とし、これに川魚、サケ、マス、山に生息する動物を”タンパク源”に食事を行なっていたとされています。
また、この時代に建てられた青森県・三内丸山遺跡より、すでに”クリ栽培”を開始していたことがわかっています。(以下の記事参照)
クリ栽培は、クリを”食糧”としての、そして”木材”としての利用目的がありました。
また、クリの巨大な柱は腐らないよう、火で焼いて炭化処理する加工がなされています。
そして柱の他にも、”杭”や”板”、”薪炭”などにも多数のクリが使われていた跡が”三内丸山遺跡”には残されています。
このように、木材利用もこの時代から始まりました。
そのため、縄文時代はすでに”衣食住が整った豊かな時代”であったと考えられています。
本記事では、そのような「縄文時代の豊かな食生活、”縄文人”と”木の実”の関係性」について紹介していきます。
最後まで、お付き合い頂けますと幸いです。
縄文時代の豊かな食生活とは!?”縄文人”と”木の実”の関係性を紹介!
縄文時代の前期は、”クリの時代”でもあります。
青森県の三内丸山遺跡では、縄文人が居住を始める前には”ブナ”や”ミズナラ”からなる森林が広い面積を占めていました。(以下の記事参照)
それらが、縄文人の居住が始まるとともに”クリの純林”が集落周辺に成立し、1000年近くもの間維持されていました。
縄文人は、クリの実を”食料”とするだけではなく、木を”建築材”あるいは”燃料材”としても使用しており、直径80cmに及ぶ”大型の掘立柱”もクリでした。
この縄文人とクリの結びつきは、日本各地でも確かめられており、杭列や木道、丸木舟や容器、櫛(くし)などにも利用されています。
埼玉県川口市の”赤山陣屋遺跡”でも、トチの実の”加工工場”や”板囲い”を初めとする建築材の3分の1である、およそ500点をクリが占めていました。
また、このようにクリは用材として用いられる一方、大型の果実をつけるものが選抜され、縄文時代の後期〜晩期には、現在の栽培品種に匹敵する大きさの果実をつけるものが改良されていたとされています。
縄文人は、こうして果実を育てて収穫する一方で、大量に伐採して木材としても活用しており、クリ林を積極的に管理育成して、”果実”も”木材”も最大限に活用していたことが明らかとなっています。
”ミズナラ”の木の実の貯蔵
しかしながら、”クリ”は甘く継続的に摂取するには難があり、また保存性に劣っていたため、主食には不向きであったともされています。
そのため”ミズナラ”の木の実も、同じく主食であったとされています。
縄文時代の前期は、気温が暖かく、様々な木の実が数多く存在していました。
”クリ”や”コナラ”の混合林、山を少し登れば”ミズナラ”の巨木、沢には”クルミ”や”トチ”が自生しており、木の実資源は豊富であったとされています。
しかしながら、木の実の豊年はほぼ3年に一度であったとされ、豊年に保存が効く”ミズナラ”の木の実を拾えるだけ拾っておく、これが飢饉から逃れるただ一つの方法であったのです。
また”ミズナラ”の木の実は、コナラよりも一回り大きいので、拾い貯めやすかったためであるとされています。(以下の記事参照)
そして、竪穴住居の屋根裏などに保存されていたミズナラは、毎日アク抜きされて主食として食べられていました。
”クルミ”は脂質が多く、また”トチ”はアク抜きが難しく、主食にはならなかったとされています。(以下の記事参照)
献立は、この”ミズナラ”の木の実と、魚・肉などのタンパク質源。
アザミ・ミツバ・アカザ・ヨモギ・オオバギボウシなどの山菜に、キノコ類を煮込んだスープ。
それに、フキノトウ・コゴミ・モミジガサ・ウドなどの旬の山菜の生ものでした。
そして冬季には、燻製保存した魚・肉、乾燥保存した山菜が用いられていたとされています。
時には、”クリ”を混ぜて甘みをつける、クルミのたれ・みじん切りをかけ、香辛料としてサンショウ・ワサビ・ギョウジャニンニクも用いられていました。(以下の記事参照)
またフルーツは、ヤマグワ・ヤマイチゴ・ヤマナシ・サルナシなどの果実です。
ヤマブドウで作った”ぶどう酒”、ミツバチの巣から採取した”蜂蜜”は最高のごちそうでした。
質素な食事であったとされていますが、このように豊かな自然を見事に活用した”バランスの良い食事”だったのでしょう。
最後に – ”縄文”から”弥生”への木材利用の変化
弥生時代になると、クリなどの単一樹種への依存が見られなくなります。
そのため”食糧調達としての木”、”木材利用としての木”の使い分けがなされるようになりました。
弥生時代の特徴的な樹種の一つは、”鋤鍬(すきくわ)の刃”に用いられる”カシ類”です。(以下の記事参照)
当時の”鋤鍬の刃”は、大木を柾目に割ったものを整形して作られており、
・大材が得やすい。
・柾目に割りやすい。
・材が強靭である。
など木材利用には、上記の特徴に該当する樹種が選ばれていました。
その結果、中部地方や東北地方などの”カシ類の生息しない地域”では、”クヌギ”が代用として用いられていました。(以下の記事参照)
”建築材“は地域によって偏りが見られ、”東北・関東地方”ではクヌギが、”北陸・東海地方”ではスギが、”西日本”ではスギやヒノキ、二葉松、カシ類などが多用されていました。
また、クリは耐久性が高く、用材として優れているにも関わらず、杭などにもあまり使われていません。
これは、縄文人の確率したクリ林の維持・管理技術が、弥生人に引き継がれなかったことを意味しています。
そのため、この”クリ”から”カシ類”への利用の変化は、”縄文時代”と”弥生時代”の断絶を象徴する歴史として知られています。
このように、縄文時代では”食生活”と”木材利用”には密接な関係にありましたが、弥生時代へと時代が移り変わるにつれ、さらなる多様な樹種への利用や加工がなされるようになりました。
古来の人々は、私たちが想像しているよりもずっと”豊かな生活”を送っていたのかもしれません。
以上が「縄文時代の豊かな食生活とは!?”縄文人”と”木の実”の関係性を紹介!」の紹介になります。最後まで読んで頂きありがとうございます。
「Woodyニュース」はTwitterやFacebookでも、自然や森林に関する様々なニュースを配信しています。ご興味がある方はフォローして頂けると幸いです。
またこの記事を読んで、少しでも森林や林業について関心を持って頂けると幸いです。